スキュー・ヒーローズ

NOVELS
ハロー、ヒーロー。
どうしても勝てない相手に勝つにはいったいどうしたらいいんだ?


「人生の主役は自分だ!」
 高校の進路相談室に貼られた某大学のポスター。太字で書かれたキャッチコピーを見て、東純一(ひがし・じゅんいち)は疑念を抱いた。
「本当かよ」
 何事も主観的に考えれば、自分が主役と言うことはできるが、俺が主体じゃあそもそも物語として成立しない。彼は最近そんなことばかり考えていた。
 正月ボケもようやく去って、今度は二ヶ月に渡るチョコレート祭。日本人は根本的には楽天的だ。
しかし、そんな日本人の一部の若者は、今年も受験という名の暴君に圧制を強いられていた。連日連夜の模試に講習・演習。シャープペンシルの芯を補充する時間も惜しんで机に向かう。
純一も高校三年生。チョコレートが旬になるこの頃は、夢を見れば必ず何かに追われていた。
 有名難関校志望ではないが、難しさは模試の合格判定が示す相対距離による。純一の志望するN大の判定はD、頑張れば入れるという苦行ラインだった。もはや決死の覚悟を決めて勉強しまくるしかない。にも関わらず、一問解いては大学ってなんだ、勉強ってなんだ、俺はなんで生きてるんだと、追い詰められた者の哲学に逃げてばかりいた。
純一には神がいることに気づいたのが、逃避の主な要因だった。神とは世界を作った人ではなく、純一の世界を回している人だ。 
その正体は、幼い頃から親友の滝上大輔(たきがみ・だいすけ)だ。大輔は頭の回転が速くて努力家、優しくてスポーツもできる。健康そのもので雑学にも詳しく、顔も整った超人、すなわち神だ。
神はとりわけ純一のことを大切にしてくれるので、これまでの人生に苦難はほとんどなかった。大輔と一緒に育った恩恵で、「ちょっと暗い」印象の純一でも友達はたくさんできたし、いじめにもまったく関わりがなかった。
しかし、思春期を迎え、進路という鏡に向き合ってみて、自分の人生が大輔で構成されていると意識するようになった。自分の知識、好み、思い出。個性というべきものはすべて大輔を基に決められていた。その鏡には大輔が映っていたのである。
受験は無慈悲だ。それでも純一と大輔との差異を数値化し、密接していた人生を切り分けた。
生まれて初めて、一人で暴君に立ち向かう純一には、独立への期待ではなく、ただ不安と自己嫌悪だけが見えていた。
脇役人生はそんなに悪くない。大輔の隣ならむしろ誉れ高い。だが、ここから先は一人舞台だ。これまでずっと脇役を通してきた純一にとって、突然の主役抜擢は、荷が重いわりに感動もない三文芝居に決まっていて、憂鬱になるのだった。
ああ、なんで勉強しているんだろう。
借りようと思っていた赤本を進路指導室の本棚に戻して、大輔の志望校のものを手に取った。長すぎる英文読解、カタツムリみたいな曲線の方程式、ばね振り子の運動方程式、金属錯体の化学反応……大輔と自分は、いつの間にか、こんなに違う世界に住んでいたのだ。唯一の救いは、決定的にレベルが違うために、追いかける気力もわかないということだけだ。
純一は丁寧に本を戻した。
「あれ、純ちゃんもT大だっけ?」
 背後から爽やかな声がした。振り返るまでもなく大輔だとわかる。
 見られた。
 なぜかすごく後ろめたい。
「大ちゃん、演習おつかれ。T大ってどんな問題が出るのかと思ってさ」
 純一はできるだけ平然と振り返った。大輔はもちろん純一の志望校と学力を知っているから、それ以上の詮索はしなかった。
「嫌な記述問題ばっかりだろぉ? T大の先生って性格悪いよ絶対。さっきの演習でもT大の過去問が出たんだけど、『レーヨンの構造式を書け』とかありえねぇ!」
「はは、確かに。でも受けるんだろ?」
 促すと、大輔は笑顔の中に本気の覚悟を見せて答えた。大輔の大輔らしい真っ直ぐな表情。
「一応ね。宇宙物理やってる大学少ないからさ」
「宇宙物理かぁ……遠いなぁ」
 大輔の存在が。
「なに言ってんだ純ちゃん、地球も宇宙の一部だろ」
 もちろんだよ大ちゃん、そして宇宙にはどうでもいいものもたくさんある。
「俺はレーヨンのない宇宙がいい」
 冗談めかして言うと、大輔もおどけて乗ってきた。
「最近の流行りはポリリズムだぜ。PETボトルの輪廻転生は錬金術だ」
「金になろうともプラスチックには魅力を感じないな。パフュームの三人は可愛いけど」
「アイドルまでいるからなぁ。合成樹脂が世界を支配する日も近い」
「そのときは俺を宇宙に連れてって」
 大輔との会話の気楽で心地良いこと。孤独な戦いに戻りたくない一心で話を繋いだ。

 もしも今、世界が滅ぶとしたら。
 俺はなに一つ抵抗しないだろう。
 
 大輔は用事があると言って学校に残ったので、純一は一人で家に向かっていた。駅前商店街のささやかな賑わいの中、コンビニでも寄ろうかと思っていたときだ。
 ブーッ、ブーッ、ブーッ。
 学生服のポケットで携帯が唸っている。取り出してみると、サブディスプレイに「新着メール一件」の表示。二つ折りの携帯をパチンと開いてメール内容を確認した。

送信者/東純一
件名/Command MT46 L991
本文/たすけて

「なんだ、これ?」
 思わず立ち止まって、何度も本文の四文字を読み直した。携帯を開閉したりもしたが、見間違いではない。
 自分自身からのメールだ。それも、たすけを求めている。
 もちろん送った覚えなどない。
 いたずらだろうか? それとも心霊現象的な……いや、心霊にバイナリ(0と1の)情報を操作できるなら、世の中はバグだらけになっているはずだ。いたずらだろう。
 メールの詳細情報を確認すると、電話番号で送るタイプのメールだった。現在日本では同じ電話会社同士に限り、電話番号だけでメール送受信が可能だ。自分自身に送ることは可能だが、他人の番号を騙ることはできないはずだ。
電話をすり替えたわけでもなさそうだ。本体情報の電話番号は純一のものだった。
「気味わる……」
 送信方法もそうだが、「たすけて」ということばの意味や、件名の英語も不気味だった。
 考えているうちに、もう一通が届いた。

送信者/東純一
件名/Command MT46 L991
本文/突然ごめんなさい。でもお願い、たすけて!
誘拐犯から逃げてきたんだけど、どっちに行ったらいい?駅前ドラッグストアの近くに交番とかある?

「駅前のドラッグストアって」 
 まさに今、純一が立っている目の前に、ドラッグストアがあった。
 純一は急激に緊張しながら、ゆっくりとドラッグストアの周りを見渡した。店の外には誰もいない。店内には真面目そうな女子高生と落ち着いた雰囲気のOLが化粧品を眺めている。少なくとも今は携帯電話を持っていない。他には品の良い中年男性の店員が安売りのティッシュを並べているのと、薬局レジの奥に白衣のおばさんが一人ヒマそうにしているだけだ。
 誘拐犯から逃げてきたような人はいない。念のため、店の横の路地も見たが、人影はなかった。
 そこへ、三通目が届いた。

送信者/東純一
件名/Command MT46 L991
本文/ごめん。見つかりそうだったから移動した。商店街を東に向かってます。本屋と靴屋の先にある「クラウン」って喫茶店の中。
どうしたらいい?

 五十メートルほど東、本屋と靴屋の向こうに、喫茶「クラウン」の看板が見えた。思わず背筋が伸びて息が詰まった。
「東純一」はそこにいる。
 かといって、すぐに返信する気にはならなかった。ワンクリック詐欺みたいなものの可能性もある。返信した途端に多額の金を要求されたり……。
 第一、本当に困っているなら、普通は一一〇番か知人に電話をかける。人の携帯番号を使ってたすけを求める意味がわからない。
 やっぱ頭のおかしいヤツだ。無視していれば諦めるだろう。受験生は他人のお芝居につきあっているヒマなどないのだ。
 四通目が来たが、携帯をポケットにしまって歩き出した。
 そこへ、
キキィィィィィィ!!!
車の白いボンネット。
視界にそれだけが映っていた。あっと思うのが精一杯。純一は吹っ飛ばされた。

アスファルトのボコボコした表面が見えている。手をついて起き上がると、肘と腰がちょっと痛んだ。商店街の人が集まってくる。
「きみ、大丈夫?」
 白い車から、羽振りの良さそうなスーツの男が降り、心配そうに駆け寄ってきた。
「あ、はい」
 立ち上がってみたが、膝とか肘がジンジンするくらいだ。商店街の中だし、それほどスピードも出ていなかったのだろう。
男はそれを聞いて大げさに胸を撫でおろした。
「良かった、本当に申し訳ないことをした。ちょっと人を探していてね、よそ見をしてしまった。申し訳ない。本当に申し訳ない。なにかあったら大変だ、病院まで送って行くよ」
「いえ、大丈夫です。たぶん擦りむいただけなんで」
「検査してみないとわからないだろう。ほら、車に乗って」
 本気で心配しているのか、人の目があるせいか、男は少し焦っているようだ。
 純一は意外と頭が冴えていて、車に乗るべきか考えていた。
 人を探していた、と言った。
 狭い商店街に車で来て人探し。この町には似合わないほど高級感を漂わせる男。車はよく見ればBMWだった。
 もしや。
そのとき、また携帯電話のバイブが作動した。
 新着メールが二件。どちらも「東純一」からだった。謎の件名も同じだ。
『そいつの車に乗っちゃダメ! そいつが誘拐犯』
 最新のメールにはそう書いてあった。
 もう一通、事故の前に純一が無視したメールには、
『あぶない!』
 とだけ書かれていた。
「東純一」は、車が迫っていることに気づいて、メールで危険を報せようとしたのだ。純一が無視しなかったら、軽症も負わずに済んだかもしれない。
「病院なら歩いて行けるんで、いいです」
 純一はとっさに作り笑いを浮かべて男の誘いを断った。
「しかし、きみ……。それなら、名刺を渡しておこう。なにかあったらすぐに連絡してくれ」
 男はスーツの胸ポケットから革の名刺入れを取り出して、一枚よこした。
 
●●株式会社 常務役員 市ノ瀬忠

 役員というのは、普通の社員じゃないということだろう。羽振りがいいわけだ。名刺の下に、一万円札が何枚か折りたたまれて隠れていた。口止め料というやつだ。
「本当にすまなかった。では、気をつけてくれよ」
 男は颯爽と車に乗り込み、去っていった。
 とりあえず車のナンバーを名刺に書き込んで、お札ごとポケットにしまった。ちょっと人目がありすぎるので、喫茶「クラウン」に逃げ込むことにした。「東純一」の話を聞いてみたいと思っていた。

 カランカランと大きな音を立ててドアを開けると、カウンターの奥から店員がにこやかに出迎えてくれた。物腰の柔らかい初老の女性だ。
「お一人様ですか」
「えっと、待ち合わせなんですけど……」
言いながら店内を見渡すが、あいにく誰もいなかった。
「誰か来てませんでした?」
「ええ、あちらの席に」
 店員の示す窓側の二人掛けの席には誰もいなかった。席を立っているところだろうか。
 純一はそこに座って、また携帯を取り出した。新着メールあり。
『ケガ大丈夫? 重症じゃなくて良かったけど、病院行った方がいいかも』
 純一はようやく返信する気になった。

宛先/東純一
件名/RE: Command MT46 L991
本文/あんた誰?

 このメールを送信した途端に受信した。

送信者/東純一
件名/RE: Command MT46 L991
本文/あんた誰?

 純一が送信したままのメールだった。
 普通に考えれば当然の結果だ。自分宛に送ったメールが無事に届いただけだ。これでは返信のしようがない。
 そこでまたメールが届いた。

送信者/東純一
件名/ Command MT46 L991
本文/件名をCommand MT46 L124にして

 なぜこいつはこちらの動きを逐一理解しているのか。店員の女性を疑ったが、メールを打っているそぶりはなかった。
 そして件名が送受信と何の関係があるのか。
疑問だらけだが、このまま終わるのもスッキリしないので、純一は従った。件名を書き直して再送信。

宛先/東純一
件名/Command MT46 L124
本文/あんた誰?

今度は送信メールが戻ってくることはなかった。代わりに返信が来た。

送信者/東純一
件名/ Command MT46 L991
本文/私は戸田歩(とだ・あゆみ)。誘拐犯を追い払ってくれてありがとう。あなたの名前は?

 驚いたのは、女の人だったことと、結果的に彼女曰く誘拐犯を追いやったこと、彼女が純一の名前を知らなかったこと。つまりメールの一文一文が衝撃だった。
 特に純一の名前を聞いてくるのはなぜだろう。なにも知らずに人の番号を使っているのか。それともやはりこれは詐欺の一種で、純一の個人情報を聞き出そうとしているのだろうか。
「ご注文はお決まりですか?」
 急に店員の声が近くで聞こえて、びくっと身をすくませてしまった。
「あ……コーヒーお願いします」
「承知いたしました」
 携帯の液晶画面に注目しすぎていた。店員の置いていったグラスの水を飲むと、微かにレモンの香りがして、気持ちが落ち着いてきた。
 冷静になって最初に思い浮かんだのは、大輔に相談しようか、ということだった。彼なら賢いし、良い方法を考えてくれるだろう。
 しかし彼も受験生だ。できれば巻き込みたくはない。
 それに、どういう仕掛けかは知らないが、自分からきたメールではないか。これは自分自身で対処しなければいけないような気がしていた。
 もう少し、一人でやってみよう。
 純一は悩んだ後で、正直に聞いた。
『どうやってこの番号使ってるの?』
 返答をごまかされたら、電話会社に連絡しようと考えていた。
 歩の答えはすぐに返ってくる。
『私も同じ番号だから』
 同じ番号?
 そんなはずはない。電話番号は一台に一つだ。
弁解するように次のメールがくる。
『これがIDだから、主役の電話はいつも同じ番号なんだ』
 ID? 主役?
 激しい違和感を感じる。やはり頭がおかしいのか。
 電話会社に報告しようとしたとき、またしても「新着メールあり」の表示。
『今、クラウンの窓側の席に座ってるでしょ? 入り口から数えて三つ目の二人席の奥側。私は、あなたの向かいに座ってる。事故の前からずっと』
思わず顔を上げた。もちろん目の前には誰もいない。いないはずなのに、グラスの水と紅茶が置かれていた。
歩の次のメールは、信じられない文から始まっていた。 
『これはシミュレーションだよ』
 あまりの衝撃に、なかなかその先を読み進むことができなかった。
『これはシミュレーションだよ。どうしても勝てない相手に、どうしたら勝てるのかを検証してる。私もあなたも主役に選ばれたんだ。私は一二四番目、人気アイドルって設定で、敵は同じユニットの子。あなたは九九一番目、脇役人生の少年。敵は完璧な幼馴染。他にも政治家とか、サッカー選手とか、いろんな人のシミュレーションが実行されたけど、千回実行しても答えは出なかったんだって。だから千個の中でも答えに近づいたパターンで、再検証してるところみたい』
 一つ気づいたのは、そのシミュレーションの番号が、メールの件名に用いた謎の文字列に入っていたことだ。
 が、他の部分は到底理解できなかった。
『シミュレーションってどういう意味?』
 まずそれを聞くしかなかった。
シミュレーションとは、コンピュータ等で模擬的に計算して、現実での実験が難しいような物事の結果を予測する手段のはずだ。入試の模試もシミュレーションの一つだ。
『この人生はコンピュータ・シミュレーションなんだよ。信じられないかもしれないけど、自分が脇役だってことは信じてたでしょ? 敵の子のことをいつも意識してたでしょ?』
 字面を追っていると、徐々に彼女が正しいような気がしてきた。誰かに相談したいが、それは大輔ではないと考えるようになってしまっていた。歩の「敵」ということばが、良くない。
『コーヒー頼んだ?』
 次のメールで、少し前に店員がコーヒーを置いていったことに気づいた。歩は純一本人よりも彼のことを知っている。
『俺にはあんたが見えない』
『私にも見えてない』
 歩の返事は意外だった。メールには続きがある。
『私とあなたがこうやってメールしてるから、二人の世界がリンクしてるんだ。こっちでも、車が急ブレーキ踏んだり、店員さんが水やコーヒーを持ってきてくれてるから、あなたが何をしてるかわかるだけ』
『なんのためにメールしてるんだ?』
 このときは、返信までにタイムラグがあった。
『こんな無意味な人生終わらせよう』
 驚きを超えて怒りが芽生えた。
『それって自殺の誘い?』
そんなことに構っているほど暇じゃあない。時計を見ると、もう午後七時半を回っている。
『違う。このシミュレーションを成功させて終わらせたいの。お願い、手伝って』
『一人でやれば』
『一人じゃ無理だよ。千回やっても成功は零回だったんだから。でも、達成率は零パーセントじゃなかった。私とあなたは十パーセント以上だったって』
『成功の基準は?』
また間があった。このわずかな時間が彼女の狼狽を示しているのか、単に他の作業をしていてメールを作成できないだけなのか、電波を介してはわからない。
『敵を頼らずにゴールできること。もしくはゴール時点で敵に歴然の差で勝つこと』
『ゴールって?』
『今あなたが抱えてる問題。私の場合は、あの誘拐犯から無事に逃げきること』
純一の場合は志望校合格か。
『なんでそれがゴールなんだ? その後も人生は続くだろ』
『続かないよ』
ガチャン、と純一の手から滑り落ちたコーヒーカップが鳴いた。
『これはシミュレーションだから、課題を達成したら終わり。期間はだいたい一ヶ月くらい。やり直しはあるけど、続きはないよ』
入試の結果発表まで、ちょうどあと一ヶ月。
しかし純一はこれまでに十八年間も生きてきている。
歩はそれを察した。
『あなたが生きてきた記憶は、実在の人物データから作られたもので、この十何年の間に行われたわけじゃない。知ってる? 現実の世界ではロボットが大統領になって、人は宇宙空間に住んでるんだって』
 自分は単なる計算結果。自殺に導くならば賞賛すべき誘い文句だ。
 あまりに突拍子もないので、信じるべきかどうか判断できる範疇を超えていた。
『どうやって終わらせるんだ?』
 人生が終わるにしろ、受験勉強が再開するにしろ、脇役は状況に流されるのが役目なのだ。純一にはずっと前からその覚悟が備わっていたことは事実である。
 次のメールが最後になるかもしれないと思って待ったが、空のカップが片付けられても、返信が来なかった。
おかしいな、と思ったとき、カランカランと音がした。
店に誰かやってきた。見ると、市ノ瀬と別の男だった。
市ノ瀬は純一を見つけると、実に嬉しそうに近づいた。もう一人も続く。大の男が二人、純一の目の前に壁を作った。
ところが二人は、純一にはまったく無関心で、向かいの席を見下ろした。
「あゆちゃん、探したよ」
 市ノ瀬が空中のなにかを掴み、持ち上げる動作をした。その腕にはかなり力がこもっている。スーツの袖が不自然に押し付けられたように潰れたが、市ノ瀬がさらに高く腕を持ち上げると、その皺が緩んだ。同時に椅子が突然倒れた。
 これが、リンクするということか。
 純一には見えていないが、確かにそこに歩がいるのだ。
 ならばどうする?
 たすけるべきか。たすけられるのか。そもそも歩はなぜ自分なんかにたすけを求めたのか。脇役人生の少年に、アイドルの危機を救う大活躍を期待するのが間違いだったんじゃないだろうか。
 しかし、この状況では、純一も逃げられそうにない。
 純一はそっと椅子の背に手をかけて、隣の男めがけて思いっきり投げつけ、間髪入れずに市ノ瀬を蹴り飛ばした。
「逃げろっ!」
 もしかしたら歩のことも蹴ったかもしれないが、見えないものは仕方ない。それに市ノ瀬の手が離れたことは確かだ。
 ガタンと店のカウンター前で椅子が鳴って、ドアが大きな音を立ててひとりでに開いた。カランカラン。
 逃げた、らしい。
 純一は息をついた。やればできるじゃないか。こちらのゴールは達成できそうにないが……。
 滅茶苦茶に腕を振り回すだけの抵抗も甲斐なく、男二人に殴られ、蹴られ、また殴られ……痛みの布団にくるまるように、世界が朦朧としていった。
純一は床に投げ出された携帯電話の画面を見ていた。
 新着メール一件。
 感覚の麻痺した手で一生懸命にボタンを押し、受信メールを開いた。
『おまえら、強制終了だ』
 メール内容を慌てて見直す。

送信者/東純一
件名/ Command MT46 L991
本文/おまえら、強制終了だ

 送信者名も件名も一緒だ。しかし歩ではないとわかった。
強制終了。
それは現実の響きだった。

プツン。

なにかが閉じる音がした。
そして世界が止まった。絵のように。嘘のように。
男たちもマネキンみたいに動かなくなった。店員も。倒れかけた椅子も不自然に止まっている。
静止画にすると、喫茶店の風景も、自分の体も、ちゃちなCGに見えてきた。

純一は更新の停止したバーチャルワールドに取り残されていた。

 夢から覚めた気分だった。
そうだ、自分はこのシミュレーションを前にも一度体験していた。進路指導室から始まって、勉強の毎日。車の事故も誘拐もなかった。彼なりに勉強したつもりだが、結局受験は上手くいかなかった。結果は失敗だったが、頑張っても勝てないということがわかったので、達成率は十五パーセントとしたのだ。
今回の試行では、受験とか大輔との競争を考えなければ、純一でも活躍の場があることがわかった。大輔に頼らず物事を成し遂げる勇気が沸いた。だから今回も達成率は三十パーセントくらいあるだろう。純一はある結論に近づいているという実感を覚えていた。
「じゃあ、次いこうか」
純一は、携帯電話を開いた。これがメインコンピュータとの連絡端末の役割も果たしている。
シミュレーションが動いていないときに限って、純一の思考回路にもいくつかのコマンドが思い浮かんだ。歩とのメールの件名にあったMT46はマスターツールの四六番目、主役に直接命令を出すコマンドだ。それから、再起動はR、記憶のフィードバックをして再起動するコマンドはRFB。件名をRFBにして自分の電話番号宛にメールする。


 純一は高校の進路指導室にいた。
 手に持っていたN大の赤本を棚に戻したとき、T大の赤本が目に入った。親友の大輔が目指している難関校だ。
ちょっと中を覗いてみようかという気になったが、やめた。
さっき読んだばかりだ。
純一はドアをじっと眺めて待った。
ガチャ。
音を立てて、大輔が入ってきた。
「大ちゃん、おつかれ」
「あ、純ちゃん。何してんの?」
「ちょっと出願準備。大ちゃんは?」
「俺は赤本取りに」
そう言うと、大輔は迷わずT大の赤本を手に取った。
「やっぱりT大受けるんだ」
 大輔は『前回』、赤本を持ち帰らなかった。純一がレベルの違いに圧倒されたことを察して、後で出直して取りに来ることにしたのだろう。
 大輔は優しい。彼は純一にとって英雄であり、神なのだ。
「うん。宇宙物理やってるところ少ないからさ。受けるだけ受けてみるよ」
「宇宙物理かぁ。大ちゃんらしいよ」
「そうかな」
 大輔の笑顔を見て、純一は覚悟を決めた。赤本を改めて取り出して、自分の鞄に入れた。
「大ちゃん、もう帰る?」
「ん? うん、用は済んだし」
「よし、じゃあ早いとこ帰ろう。進路指導の先生方に見つかったら嫌味言われるからな」
「確かに。じゃあ行くか」
 二人は久しぶりに並んで歩き出した。
 くだらない、プラスチックの話で盛り上がりながら、二人は校門を抜け、駅前商店街に入った。
 純一は静かに携帯電話を手に取り、メールを新規作成した。

宛先/東純一
件名/ Command MT46 L991
本文/答えが見つかった

キキィィィィィィ!!!
トラウマになりそうな急ブレーキの音。
ドラッグストアの前で、白いBMWにはねられそうになった。が、大輔の機敏な反応のおかげで、二人とも間一髪で避けることができた。純一はバランスを崩して転んだが、大輔はしっかりと着地した。
運転手がそのまま逃げようとしたので、大輔は車の前に立ちはだかった。
「おい、待てよ! 逃げても無駄だっ」
 その姿の勇ましいこと、英雄そのものだった。純一はうずくまりながら胸が熱くなった。
 さすがのBMWも発進をためらう。その瞬間、後部座席のドアがバンッと開いて、中から女の子が飛び出した。
「たすけて! この人たち誘拐犯です!」
 市ノ瀬と後部座席にいた別の男が真っ青な顔をするのが見えた。
危なかった。すでに捕まっていたとは思わなかった。
「純ちゃん、その子っ」
「おう!」
 大輔の指示を聞くまでもなく、純一は歩の手を引いて車から遠ざけた。大輔は果敢に車に乗り込み、運転席の市ノ瀬を殴り、次いで後部座席の男を蹴りつけた。狭い車の中とは思えない身軽な動きだった。
 純一は歩を、見覚えのある歩行者の一人に預け、取って返して運転席のドアを開けた。ドドッと音を立てて市ノ瀬が雪崩れ落ちる。そこへ赤本の角で一撃。市ノ瀬は腫れ上がった顔をガクリと倒して気を失った。
一方、大輔は後部座席の男を押さえつけて、これを英和辞典で撃退した。
「お巡りさん来たよ!」
 歩の声が終了の合図となった。
 彼女のことば通り、交番の巡査が駆けつけて、誘拐犯たちは取り押さえられた。純一たち三人も警察まで連行されることになったが、歩のしっかりとした説明と、大輔の真摯な態度に、巡査たちは同情的だ。
 アスファルトに三人並んで座って、ちょっと息を落ち着かせた後で、歩が満面の笑顔を見せた。
「二人とも、ありがとう! カッコ良かったよ」
 二人にとってはなによりの報酬だった。歩は本当に現役アイドルだった。「まり」と「あゆ」の二人からなる「MARIYU」(マライユ)の「あゆ」の方だ。明るくちょっと生意気なセクシーギャルの「まり」に比べて、「あゆ」は大人しくて知的で、体型的にはちょっと凹凸が少ない。人気でも一般的に「まり」の方が上と認識されていた。
 が、こうして近くで見ると、「あゆ」も薄化粧ながら充分すぎるほど可愛い。
「まさかMARIYUのあゆだと思わなかったけど」
 大輔は彼女の正体に心底驚き、照れ笑いを返した。歩も微笑む。
お似合いじゃないか。
 純一が二人を眺めつつ、赤みを増した赤本をどうしようか迷っていたとき、携帯のバイブが振動した。
『これのどこが答えなんだ?』
 まだわかってないのか。純一はやれやれと溜息をついて、返信した。
『千回やっても勝てないヤツには勝てない。ただ、隣の勝負に首を突っ込んで、その勝敗を変えることはできる。逆に、他のヤツが干渉してきてこちらの勝敗が変わることもありうる。現実ってそういうもんだろ』
「S・K・E・W、スキュー」
 突然、隣に初老の女性が立っていた。
「あ、クラウンの……」
 喫茶クラウンの店員をしていた女性だった。彼女は軽くウインクをして、先を続けた。
「二つの点を結ぶ直線。別の二点を結ぶ直線。二本の直線は平行でなければ必ず接点を持つ。ただ、高層ビルの各階の床に直線を描いたところで、どんなに長く伸ばしても絶対に交わらないように、平行な面の中の直線どうしは交わらない」
「ねじれの位置か」
純一は数学で習ったことを思い出した。婦人はにこやかに頷いた。
「このシミュレーションは対象とする二人の勝負のために、それぞれの世界を定義した。それが間違いのもと。千階建てのビルの、各階の床での戦いを屋上から眺めているようなもの。勝ち負けの決まった戦いをね。この高層ビルのオーナーは、ねじれの位置から解が届くのを待っている」
 婦人はエプロンのポケットから携帯電話を取り出した。
「だからヒントをあげたの。各階をつなぐ階段を作るコマンドを彼女に教えた」
 話題に出た歩は一瞬こちらを向いて、軽く会釈をし、大輔との会話に戻った。
 コマンドと聞いて、純一には思い当たることがあった。
「メールの件名の文字列ですか?」
「そうよ」
 婦人はふいに空に向かって言った。
「ねぇ、勝敗をつけるなら、自分のビル内でやらずに、うちと正面勝負しない? 千階分のシミュレーションを一つの立体的なホールに見立てて、つまり相互作用有りで並列処理して、どちらが現実に近いシミュレーションをできるか。なんなら私とあなたを登場させて、その生涯の成果で競いましょうか」
 しばらく沈黙があったが、やがて純一の携帯にメールが届いた。婦人も覗き込む。
『わかった。受けて立つよ』
「ああ、よかった! 楽しくなるわ。あの人、最近全然構ってくれなくって」
 婦人は本当に嬉しそうに笑った。
「あの、聞くまでもないことだと思いますけど、このシミュレーションを作った人の、現実でのライバルの方なんですか?」
「ええ。この姿よりもうちょっと若いけどね。生涯のライバルと呼ばれてる。今は彼のプログラムにハッキング中」
 とても聡明な人なのだろうと思った。彼女(?)を相手に勝負を続けるのは大変そうだ。どうやったら勝てるのか、シミュレーションしたくなる気持ちはわかる。
「ところで、あなたに聞きたいことがあるんだけど」
 婦人が急に真剣な表情になったので、純一は姿勢を正した。
「なんですか」
「私はあなたのところに一二四階の彼女から階段を作ってあげたけど、三回目の試行でこうして『敵』の大輔くんを連れてきたのはどうして? もっと自分が活躍できるように展開を変えられたでしょ?」
 その答えは、この人にはわからないかもしれないが、シミュレーションのマスターならわかってくれるだろう。
「勝てない相手なら、とことん引き立ててやろうと思っただけです。それが脇役の務めですから。それにほら、やっぱりあいつの方が様になってる。世の中には分相応があって、それに従う方が素直で楽だと思うんですよ。少なくとも俺は、脇役の方が幸せです」
「本当に?」
「ええ、脇役としての勝負なら確実に勝てますから」
「直線のどちらが上か下かは、軸の取り方一つで変わるのだということね」
 婦人は興味深そうに目を見開いたが、新着メールは不満そうだった。
『負け犬の言い訳だろう』
「怒ってるわね」
 婦人は楽しそうだ。
 純一も笑った。それから、空に向けて一冊の本を掲げた。赤い表紙の厚手の冊子。大輔と同じ、T大学の赤本だ。人気があるので、進路指導室には常に数冊がストックされている。ついでに、出願届も持ってきていた。
「一年留年してでも、T大を目指すことにしました。これって勝敗で言ったら負けだろうけど、選択肢としては最高だと思います」
「人生万事、塞翁が馬って言うしね。最終的に誰が勝者になるか。次のシミュレーションが楽しみ」
 そう言った後、婦人の姿はすぅっと消えていった。
 純一は赤本を鞄に戻して、大輔と歩の会話に混ざった。
 少なくとも今は、本当に幸せだ。
 地味でいい。自分の選択とその結果に満足できれば、幸せと呼べる。次の人生でもたぶん、同じように大輔の次の席を選ぶだろう。

 ハロー、ヒーロー。
 隣に行ってもいいかい?
 きみの手伝いをさせてくれよ。
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