エレキテイル
第一章
「森に癒されるなんて、人間は変だな」
ミイタは「森」を歩行する動作の複雑さに、うんざりしていた。
足元は木の根や草むらで位置制御が煩雑なうえ、太陽光が木の葉に遮られて明暗を繰り返すため、非常に見づらい。
姿勢の安定と歩行を続けるために、ミイタの制御回路は通常より三パーセントも加速した。脚部のモータもキチキチと異音を立てており、癒しどころか負担が増えるばかりだ。ロボットにとっては。
ミイタは人間の子供ほどの身長をしたロボットだ。「人型」のカテゴリに含まれるが、試作機のため、毛や皮膚といった人間的な装飾がまだない。回路や可動部を保護する真っ白な樹脂に覆われているだけの、のっぺらぼうのロボットだ。
その樹脂も、ここまでくる間にすっかり薄汚れて、傷だらけになってしまった。警察に襲われたり、木の根に躓いて転んだせいだ。もしこの姿のままゴミ捨て場で昼寝をしたら、目ざといリサイクル業者に捕まって、瞬く間にスクラップにされるだろう。
メンテナンスをしたいが、ミイタの内部構造を知る唯一の技術者は、若くして死んだばかりだった。そのおかげで彼は自由を得て、森林散策などしていられるのだ。
主人の死に対する悲しみはあった。が、ロボットが行動をやめる理由にはならない。ミイタは歩き続けていた。先に進めば、人間の憧れる「森」の良さがわかると思ったからだ。
ぴよ、と鳥が鳴いた。電子音声だった。
人間を癒すために設置されたロボットだろう。
「悪いな、オレもロボットなんだ」
美しい鳴き声になんの感動も覚えないことを、頭上に向けて謝った。そしてまた歩きだす。
「森」や「川」といった「自然地区」は、人がいる所には必ず一つ造られていた。人間の心身に良いという統計的な結果があるからだ。埃だらけの工場地帯も、例外ではない。人がほんのわずか癒されるためだけに存在している。それなのに、
「ロボットしかいないじゃないか」
ミイタは皮肉に笑った。口はないが、笑った声を出した。
この地区の人間たちは働くのに躍起になっていて、癒しを求めようとは思わないらしい。
変わり者のミイタの主人だけが、難題にぶつかるとき、窓からこの森を眺めていた。人間はそれで癒されるのだと教えてくれた。実際に、青年がぼんやり窓の外を眺めた後で、「ミイタ、思いついたぞ!」と嬉しそうに騒ぐ姿を何度も見たことがあるから、効果はあるのだろう。
しかし、ここまで来ても、自然の良さは実感できなかった。特に、自然と永遠の概念は全く結びつかなかった。
「ロボットには無理なのかな」
ミイタが諦めかけたときだ。
森の奥から声が聞こえた。
小川がせせらぐような、軽やかで滑らかな少女の声だ。
「人間? いや、違うな」
肉声に酷似しているが、わずかにノイズが増幅されている。電子音声だ。
ミイタは好奇心から、声を目指して歩き出した。
木の葉が重なる視界の向こうに、熱反応があった。近づくと、赤外線でも位置を検知できた。ほぼ真正面、二十三・一九メートル。
黒ずんだ木の幹が、二又に分かれている。その分かれ目に、少女は腰掛けていた。
アンティークの人形に似たワインレッドのドレスが、風に膨らんでは萎む。レースの袖口からのぞく肌は象牙色のセラミック。長い黒髪は、グラスファイバーのように日光を反射している。瞳は木の葉より濃い色のグリーンで、眼を見張る美少女というよりも、理知的な目鼻立ちをしていた。小さな口が上下に動く度に、少女のことばが森の空気を弾ませる。そのリズムに乗って、ぴよ、ぴよ、と鳥も鳴いていた。
まるで、歌だ。
少女と小鳥が歌う森。人間が癒されそうな環境だ。彼女も森に設置されたロボットなのだろうか。
ミイタは多少慣れた調子で、サクサクと草を踏んで近づいた。少女はちょうどミイタの頭の高さに座っている。彼女の足先にぶつかるほど真下まで進んでも、少女のリズムは変わらなかった。瞳も前を向いたまま無表情。ミイタの存在を認識していない。あるいは、ずっと前に探知していて、だから話し始めたのか。どちらにせよ、目の前で手を振っても、肩を揺すっても全く反応を見せず、語り続けている。
「一方的にしゃべるだけかい?」
あの鳥たちのように。
ミイタは寂しいと感じた。彼は最高の人工知能を持っている(と主人が言っていた)。人工知能の目的とは、すなわち、コミュニケーションだ。会話による学習がなければ、ただ記憶するだけの装置だ。彼に組み込まれた無限の向上心が、処理する情報の少なさを寂しいと評価した。
「ん? ちょっと待てよ」
森=つまらない。と結論づける寸前で、ミイタは少女の足元に目をつけた。
「失礼」
かつて主人が女性型ロボットの修理をしたときを思い出しながら、指先でそっと彼女のスカートの裾をつまみ、少し持ち上げた。白いタイツを履いた細い足と、エナメル質の靴が見える。いまはぴくりとも動いていない。しかし、靴底には土と草のかけらが付着しており、かなり擦った形跡も残っていた。
彼女は歩いていたのだ。それも長い距離をだ。
「据え置き型じゃないなら、どこから来たんだい?」
ミイタの感心は一気に高まっていた。
彼女と会話をしたい。
「故障したなら、直してやらないとな」
ミイタは主人の受け売りのセリフを誇らしげに言った。迷いがなくて、ミイタの一番好きなことばだ。彼は真っ白な腕を伸ばし、慎重に、少女の体を幹から下ろした。